ラオスは西暦4〜5世紀の間に中国から南下した人々によって形成されました。

 ラオス民族は8世紀前後にインドよりの強い影響を受け、仏教を採用しました。

 11世紀前半から200年間、ラオス民族一部はアンコール帝国のクメール人でした。この時期にタイよりこの地に住み着いたシャム(タイ)人達が中国人地域を襲い領土制覇しました。その後勢力を増したシャム人がラオ・クメール人と闘争が開始され、カンボジア・クメール帝国の崩壊によって現代のラオスと同じ領域を占有し、現在のラオスの国土になったものと考えられています。さらにシャム進行軍はベトナムへの移動により1349年にランサン独立王国は樹立されました。このランサン独立王国の民族は、制覇を成し遂げたシャム人民族とさまざまな山岳部族で構成されていました。このランサン帝国は、ヴェトナムやタイ、ビルマからの頻繁な侵入を受けながらも3世紀の間もちました。

 18世紀には民族間の権力闘争が頻繁に発生し、1779年には首都ビエンチャンを征服したシャムによってランサン帝国は破壊されました。

 19世紀は、諸外国より影響を受けたラオ人同士がラオ国の領域確保とのため内部紛争が頻繁に発生し、政治混乱の期間でした。1870年代までシャム人は圧倒的な強さを保持し、ベトナムを占領したフランス人の到着まで優位な状態でした。しかしシャム人はフランスの強力な軍力に屈しました。その後ラオスは第二次世界大戦の日本の占領を除き、フランス占領国インド中国の一部となり、1950年代まで占領下国家として存在しました。

 国家完全独立は、シサバンコグ・ボング王により1953年に成し遂げられました。君主制はファイター(パテトラオ)が残党のフランス人を排除し、彼らによって自立する体制作りとアメリカからの悪影響に対処するため、ヴェトナムでベトナム・ミン・ベトコン国家主義者との同盟を結びました。ラオスのパトリオティックフロント(LPF)に組織される元国家主義のゲリラとの闘争が発生しました。中国人民はラオスを占領すべく度重なる攻撃を仕掛けましたが、ラオスには全く影響がありませんでした。正に1975年以後、ラオスはヴェトナムからの軍隊と経済援助に依存しているようになりました。

 1980年代後期に、中国とラオスの間の緊張はついにゆるみ始めました。1970年代後期に切断された外交関係は、1987年12月に回復されました。そして文化的で相互的な貿易協定が締結されました。

 しかしその後もラオス政府は全く進化せず、LPRPは厳しい支配を保持したままとなりました。

 1998年、退去するポウムサバーの代わりにLPRP共産党政治局の理事長と長官の位置に、カムテイ・シファンドン(初期パテトラオ指揮首脳の1人)が着任しました。下院の選挙は2002年2月に開催されましたが、その全ての候補者はLPRPに属していました。これは政府の重大な内部問題を解決する事をしませんでした。

 最近のロシア人民族学者によると、ラオス民族は100以上の異なった人種集団が存在すると発表されました。しかし一般的には68の異なる民族に分類されるとされています。その内、47民族だけは完全に研究されて確定されています。この確定された民族の他は、残念ながら滅亡または近親結婚によって消滅しています。

 最も初期のラオ宗教はアニミズム信奉者でしたが、多くの山岳部族はしばしば仏教と結合してこの信念を続けています。現在では仏教が優位を占め、約80%のラオス人は上座部仏教徒を信仰しています。朝には修道士に食物等のお布施が実施され、ラオス人の信仰の厚さが感じられます。多くの若い男性は思春期に寺院で少なくとも3ヶ月を過ごします。
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